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【裏千家インタビュー】芸術家 豊田豊 ~ブラジルと日本を繋ぐ芸術~

 第16回目のブラジル著名人インタビューは、芸術家の豊田豊様にお願い致しました。

 活動拠点であったヨーロッパでの生活、また日本とブラジルの意外な繋がりなど、お話をお伺いしました。

プロフィール

山形県・天童市出身。1958年に渡伯、1971年にブラジル人へ帰化。
活動拠点はブラジルの他アルゼンチン、イタリア、日本と多数。
家族:夫人、子ども3人

ブラジルに来られて、その後アルゼンチンのブエノスアイレスへ渡られたとのことですが、きっかけは?

-私の好きな作家のうちの一人にルチオ・フォンタナという芸術家がいて、その人を探しにブエノスアイレスへ行きました。彼は空間主義を唱えていた人で、アルゼンチンは特にキネティックアートや視覚芸術が世界的にとても進んでいて、日本にいた頃からこの分野を学びたいという想いがありました。先生に会うため色々探しましたが、イタリア・ミラノへアトリエを構えるためおられませんでした。その後どうしてもお会いしたくてミラノへ行って、フォンタナ先生の空間派のグループに入れてもらいました。私の作品のテーマが「宇宙空間」となったのもその頃です。

 

イタリアへ移られたのはそういった理由だったのですね。

―はい。ただ最初は家内の友人を頼りにフィレンツェへ赴きました。またフィレンツェにはサンパウロ美術館(MASP)の初代館長を務めたピエトロ・バルジという先生がおられて、経緯を説明したらあるマンションをご紹介して下さって。実はバルジ先生は当時、ブラジルの新聞社シャトーブリアンの依頼でブラジル人留学生会館を手掛けていました。ヒエゾリという丘にあるフィレンツェの街が一望できるとても良い所で、その一室を使わせてもらって一年程過ごしました。

 イタリアでは本当に運に恵まれました。ミラノにある世界的に有名なブレーラ美術学校の近くのバーに通っているうちに、エンリコ・カステラーニやボナルミ、スケージといった有名作家達と知り合いになりました。カステラーニなんて私に自分の古いアトリエを貸してくれましてね。場所はミラノのメトロの終点で大きなマンションが6棟程建っていたのですが、そこの地下を全て芸術家に貸していたのです。賃料は一年に一点、オーナーに作品を渡せばよかった。この環境はさすがヨーロッパという感じでしたね。

 

イタリア人の芸術に対する理解の深さがよくわかるお話ですね。その後イタリアでの芸術活動で契機となったことなどはありますか?

―イタリアで展覧会(第7回ミラノ=ピアツエータ賞)があり、カステラーニが参加を勧めてくれ出品し、そこで最優秀賞を受賞しました。またベネツィアとミラノの間にブレシアという街があるのですが―「ロミオとジュリエット」で有名なベローナの西隣です。そこにシンクロン画廊というのが出来て、カステラーニが紹介してくれました。オープニングには大勢の方が来て大成功を収めました。僕は本当に運が良かったです。こうしてイタリアで仕事をしていこうと思いました。

 そうしたら今度はブラジルの総領事館から声がかかりました。第10回サンパウロ・ビエンナーレ展から出展の招待の連絡が入り、それはやらなくては、と引き受けました。そこでボストン銀行賞と外務省賞をいただきました。1969年でしたね。これをきっかけにブラジルや南米での外務省の仕事が沢山入ってきて、もう忙しくてイタリアへ帰れなくなってしまった。国の仕事で行くので、その頃にブラジルに帰化しました。

 

イタリア、そしてブラジルでも作品が高く評価されたのですね。日本でもお仕事をするようになられたのもこの時期でしょうか?

―そうですね。1975年頃でしょうか、日本も段々と景気が良くなっていきました。天童市出身の佐藤千夜子という歌手がいて、日本で初めて流行歌を歌ったという有名な方でした。町おこしをする為に彼女のモニュメントを作ろうという事になったようです。

 山形美術館の学芸員の方がブラジルへ来た時にオスカー・ニーマイヤー等の作家たちを紹介したことで顔見知りになり、「天童生まれの彫刻家がいる」ということで私のところに依頼がありました。ブロンズで大きな作品を作り、NHKでも取り上げてもらいました。

 

では日本での作品の第一号が、ご出身の天童市での作品だったのですね。

―はい。この他日本には42点程作品があります。中でも一番大きい仕事は、日伯修好100周年記念で製作した記念モニュメントです。横浜・みなとみらいにあります。というのも移民の方は横浜から出発しましたから。この作品は横から見ると船にみえて、先端をブラジルの方へ向けました。昔は60日もかけて船でブラジルへ行きましたからね。また別の角度から見るとジェット機のようにみえます。日伯修好100周年ということで、船の時代とジェット機の時代を表現しました。

 

作品はブラジルで作って送られていたのでしょうか?

―日本での作品は全て日本で作りました。日本の方が技術的にかなり進んでいますからね。工房は天童木工に構えていました。私の父が創設に関わっていました。ブラジルのタウバテにも工場があったのですが、オスカー・ニーマイヤーやセルジオ・ホドリゲスなど著名な作家が喜んで仕事をしてくれました。意外と皆さんご存知ないのですが、ブラジリアにある家具は実はほとんど天童木工が製作したのですよ。オスカー・ニーマイヤーが設計のメモリアルJKや国会議事堂などの家具もそうです。

 

 

それは存じませんでした。日本とこのように繋がりがあったとは驚きです。

―オスカー・ニーマイヤーとの面白い話があります。彼は軍政権時にフランスへ亡命してそこで家具も作っていたのですが、バネのようにS字に曲がった椅子を鋼鉄で作っていた。ところがこれが鉄だから物凄く重たく、持ち上げようとしても全く動かない。それで僕の所へ来て、これを木で作れないかと。最初は驚きましたよ。もちろん、折れてしまいますからね。厚みは15mm程というから薄い板で、これは困ったなぁと思いながらもやってみてくれと頼まれて、天童木工へ相談に行きました。技術者の方と研究して試作してみて、最初はやはり折れてしまうのですよ。けれど天童木工にはすごい技術があって、戦時中に飛行機が不足したため木で作れと言われ、そこで成形合板という技術が生まれました。木の薄板を繊維が交互になるように4重程重ねて、特殊な糊を使い、電気で圧迫させて、薄いけれども折れない丈夫な板を生み出したのです。

 この技術を生かして製作したら、これが成功したのです。150kgの重さにも耐えられる椅子になりました。これがブラジリアにあります。メモリアルJKなんかに特に多くありますね。こういった事があったので、ブラジルの作家が天童木工を頼りに多くの仕事をしました。

 

先生の作品で木を使ったものもあるのでしょうか?

―最初の頃は木の作品を作っていました。それが「目に見えないもの」を表現したいと思うようになり、だんだんとステンレスへ移行していきましたね。素材を磨いて鏡のように映り込むようにしたかった。面白いもので、学生時代に工芸科で漆を学んだのですが、ステンレスを磨く技術が漆と同じ原理なのです。色々な事が時間を超えて繋がっていると感じます。

 

茶道とご自身の関係は?

―先述の漆を学んだこともそうですが、芸術は全て繋がっていると考えています。茶道の世界はそれこそ、宇宙そのものですよね。私が作品のテーマとしている事とつながる部分が多くあると思います。

 

それでは最後に、座右の銘をお教えください。

―「宇宙空間と人間」です。

 

お忙しい中貴重なお話を誠にありがとうございました。

インタビュー:2019年3月

 

【編集後記】

 豊田先生の作品は、聖市・セー広場に設置のモデルと同じものが北海道・豊富町の自然公園内にあります。また、天童木工はブラジルの銘木に魅せられ木材の家具製作に、一時タウバテ市に工場を構えておられました。

2019年4月

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