~ 一盌からピースフルネスを ~

【裏千家インタビュー】ブラジル音楽評論家のパイオニア 坂尾英矩様

第19回目のブラジル著名人インタビューは、元在サンパウロ総領事館広報文化担当で1993年度海上自衛隊練習艦隊連絡士官2等海佐としてサントス港において勤務された坂尾英矩(さかお ひでのり)様にお願い致しました。

音楽による日伯の文化の懸け橋として、また「ボサノヴァ創成期の生き字引(ご本人談)」として長くご活躍されておられる坂尾様より音楽にまつわる貴重なお話を伺いました。

プロフィール

生年月日:1931年9月15日

出身地:神奈川県横浜市(ご祖父様は明治維新直後に毛織物問屋として立身された、三代続く生粋のハマッ子)

家族構成:ご息女一人

趣味:音楽 読書(特に造船・航海・海戦・海難などの海事に関する書籍)

 

-音楽との出会い、そしてご来伯の経緯をお聞かせください。

着伯したのは1956年10月ボサノヴァ誕生前の頃です。その頃のブラジル音楽というとヌーヴェルヴァーグの混沌とした空気感があり、そしてロックサウンドが生まれた時代でした。

終戦時に母校・翠嵐高校が半分進駐軍に接収されました。在校時のある日、米兵が講堂内のピアノを弾いている場面に出くわし、その演奏に惹かれピアノの手ほどきを受けました。
彼のスタイルはアドリブの利いたジャズだったので私のピアノは耳から覚えたのです。

日大在学時からは学生バンドの一員として進駐軍相手に地元の横浜や横須賀の基地で演奏していました。あの頃はハワイアンの流行もありウクレレをやった後コンボのベースに移りました。中村八大さん(「上を向いて歩こう」などで知られる作曲家)やナベサダ(日本を代表するジャズサックス奏者)さんなどが華々しく登場したジャズ時代でした。

ある日横浜・山下町のヨットクラブにて、外国人の家族パーティで演奏することになりました。

セッティング中に高校生ぐらいの可愛い女の子から声を掛けられたのです「サンバを弾く?」と。

その頃はブラジル曲のレパートリーなどありません。当時アメリカのラテン音楽界の主流だったキューバン・オーケストラが演奏する「サンバ・ブラジル」という曲だけがメモ帳にあったので、何とか見よう見まねで演奏してみると彼女が一人だけ大拍手。もっとサンバを、とリクエストされたのです。何故サンバにこだわるのか、米国人ではないなと感じて思い切って彼女に訊いたら「自分はブラジル人」だという返事が。

当時の私は在京のエル・サルバドール領事からスペイン語を教わっていたので、この話をしたら、件の美少女は在日ブラジル大使の令嬢ヴェラ・メンデス・ゴンサルべスということがわかりました。あの晩ステージが終わってからウイスキーでメートルが上がっていた私が彼女に厚かましくも訊いた言葉「ブラジルにはあなたのような美しい女性が大勢いるのか」に対する答えはショックでした。 「ブラジルには私なんかより綺麗な娘が沢山いるわ」 これが今私がここにいる原因ですよ。

ブラジルと言えばアマゾンとコーヒーの国というイメージしかなかった時期ですが、日伯移住協定が再開していたので、エル・サルバドール領事からブラジル行きをサジェスチョンされたわけです。

今とは違いおおらかな時代、渡航にあたり県庁はじめ役所は多々ある規定未満にたいしては片目をつぶり無事認可されたのです。こうしてオランダ船でリオデジャネイロを経てサンパウロにたどり着きました。ブラジル大使のお嬢さんの美しさに惹かれて渡伯。誰も信じませんが、当時は25歳。若さゆえの動機です。

-サンパウロ着後 どのよう過ごされていましたか?

神奈川県海外協会・沢地所長はじめ、横浜関係の方々との様々な縁が結び、当時サンパウロのラジオ局・ラジオジフゾーラで「わかもとの時間」という日本語のラジオ番組内のNHKニュースのアナウンスを受け持つことになりました。横浜出身ゆえの綺麗な標準語が求められたのです。

その後日系ラジオ・サント・アマーロ局で仕事をしてから一時日本に帰国して東京にてブラジル音楽関係のレコード制作の仕事をしてから、改めて72年にブラジルへ。在サンパウロ総領事館の文化担当官補佐に採用されて25年間公館勤務をしました。

-海上自衛隊時代のお話をお願いします。

同じ72年から当時の伊藤政雄総領事から海上自衛隊練習艦隊寄港時の連絡士官(リエゾン・オフィサー)を拝命し、4年毎の艦隊訪伯時には給油・給水からブラジル海軍や日系人団体との連絡業務乗船管理に携わりました。旧制中学時代に横須賀鎮守府山下町学徒訓練所で一週間海軍生活を精神棒で叩き込まれた経験が活きたと思います。英語・ポルトガル語の海軍専門用語も多少かじっていたので重宝されたものです。早朝から深夜までの重労働でしたが面白い経験も沢山しました。

-ボサノヴァとは?

BOSSA NOVAはリオ地方の「BOSSA=スタイル」という俗語で、新しいスタイルという意味です。
50年代後半にリオのとある大学でのコンサートの告知に「BOSSA NOVA」と書かれたのがきっかけでこの名前が広まったと伝えられています。
誰が生み出したというより新しい波(ヌーヴェルヴァーグ)がじわじわと沸き上がったムーブメントの中で誕生した音楽という解釈がふさわしいと言えるでしょう。

ジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンがボサノヴァの中心人物であったのは間違いありませんが、彼ら・または特定の人物により編み出された音楽スタイルではないのです。

日本ではボサノヴァの神もしくは祖と慕われているジョアン・ジルベルトですが、ギターの名手・バーデンパウエルは、彼を「ミルクコーヒー」と称しました。当時のブラジルではイタリア系の歌手による声量も豊かでエモーショナルな音楽もありつつ、アメリカ文化の流入でビング・グロスビーのようなソフトな音調が好まれていました。この定着していた2点の音楽事情がコーヒー。ミルクとはドラムの新しい演奏方法で、若者が既存にはないモダンなスタイルを模索した故のリズム。

愛すべき“コーヒー(ベーシック)”に“ミルク(ニューウェーブ=ヌーヴェルヴァーグ)”を混ぜたのがミルクコーヒー、すなわちジョアン・ジルベルトの音楽だそうです。彼はボサノヴァのinventor(発明者)ではなく“ミルクコーヒー”を発明した人と言えます。もちろん優れた音楽家であることには変わりません。
 
アントニオ・カルロス・ジョビンとは、彼がそんなに有名でない頃1957年にリオ・コパカバーナで出会っています。

いいバンドがあるとブラジル人の知人に案内してもらったバーでピアノを弾いていたのがジョビンだったのです。

戦争直後の日本は勿論、ブラジルでも音楽教師の中には生計のためにバーの演奏をする人が少なくありません。ジョビンも音楽教師だったのですがピアノの和音のセンスがモダンで綺麗だったことを憶えています。その夜は大いに酔っていたのでバーの名前などは記憶にないのですが、ジョビンと握手まで交わしたのは覚えています。

さて 何故ボサノヴァが世界的に受け入れられたのか。リズムのたたき方が簡単になり外国人にも演奏できるようになったのが大きな原因と言えるでしょう。

ニューヨークのカーネギーホールで行われたボサノヴァのコンサートがアメリカのジャズミュージシャン達を虜にし、これが発端で世界に広まったのも一因です。

ボサノヴァはブラジルではそもそもエリート階級から人気の火が付いた音楽で、徐々に一般大衆にも受け入れられるようになりました。しかしビートルズの影響でエレキギターサウンドやロックミュージックの台頭により60年代後半のブラジルにおいてはすでに衰退していきました。

日本人がボサノヴァに触れたのはアメリカ経由です。ソフトなメロディーに日本人は惹かれるのでしょう、特に日本人女性からの支持を得ました。

その土地で育ったりその地の人々との関わりで「血」はできてきます。サンバは民俗音楽ですから、そのリズムは「血」が入っていないと奏でられません。テクニックはあったとしても。日本の民謡にも言えることです。芸に溶け込むうちに中から「遊び」が出てきます。「遊び」が出るようになれば「血」ができサンバで言うとリズムが体に入ったといえます。

「泣くか遊ぶか」、芸は技術だけではないのです。

-最後に茶道と音楽について如何お考えですか?

茶道は静の世界ですから、茶の湯の空間においては、釜の煮える音とか、点前者から出る音は雑音ではなく、一種のBGM(バックグラウンド・ミュージック)ではないでしょうか。従って静の世界を愛する国民だからこそBGMに一番適しているボサノヴァが好まれるようになったと考えます。こじつけの屁理屈と思われる方もおられるでしょうが、長年ブラジル音楽にたずさわってきた老人の単なる私見です。日本で流行した音楽ジャンル、例えばサルサ、タンゴ、マンボなどはいずれも静の世界とはかけ離れたものですが、ボサノヴァがBGMとして日本に定着したのは茶道の哲学と関係ないとは言えないような気がしてなりません。

 

<編集部より>素晴らしいお話 ありがとうございました。

2022年6月

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