~ 一盌からピースフルネスを ~

【裏千家インタビュー】日本人の小説家 醍醐麻沙夫先生

 第18 回目のブラジル著名人インタビューは、日本人小説家の醍醐麻沙夫先生にお願い致しました。
 ブラジルに移住される事になった経緯、ブラジルでの生活や経験、ブラジル日本両国の文化習慣の違い、最近の趣味、その他の興味深いお話をお伺いしました。

プロフィール

・出身: 神奈川県横浜市生まれ。学習院大学文学部卒。
・家族: 夫人
・生年月日: 1935年1月3日
・サンパウロ在住

 

「ブラジルに渡った経緯」

〜横浜からサンパウロへ〜

横浜の港近くの広場を遊び場にしていた子供時代、港に停泊中の外国船を見たり、外国船に遊びに行ったりするたびに外国に憧れていました。
学習院大学で文学部、哲学科美学コースを選び、仏教美術を学ぶ中で、天平時代の乾漆の技法に惹かれ幾つかの仏像を作り、横浜市の美術展に出品したこともあります。
高校のブラスバンドで楽器を覚えたので、高校から大学までアルバイトでビッグジャズバンドでサックスを担当していました。(サンパウロのジャズバンドで活躍する音楽家の広瀬秀雄氏は弟)
船に乗って外国に行きたい夢を捨てきれず、卒業と同時に、ブラジルに移住する決心をしました(当時の日本は外貨不足で自由な海外旅行はできなかった。インドへ留学しようと思って調べたら、留学生試験を受ける順番が5年待ちと分かり断念した)。 1960年オランダ船チャチャレンガ号で、横浜港を出港。約三ヵ月の船旅を過ごした後サントス港に入港しました。サントスの税関で、ペレーという名前の明るい中年の人と英語で会話をしました。後に、その人が、あの有名なブラジルを代表するサッカー選手であることを知ったのです。
大学を卒業してから思ったのは、学校で学んだ事は社会に出てからすぐには役に立たない、それよりも学校を出てから継続して勉強するほうが大事ということでした。
学生時代には、安保反対等を叫ぶ60年代の過激な学生運動が盛んで、私は政治に興味はなく、ノンポリと言われたタイプでしたが、それでも周りの雰囲気に流されて国会を囲むデモに参加することもありました。

〜ブラジルに移住して〜

リベルダーデ地区には,シネ・ニテロイと云う名前の東映専門の映画館ができました。なにしろテレビなどない時代ですから日系移民社会では日本映画の全盛期で、サンパウロには松竹、日活、東宝の各専門館がありましたが、片岡千恵蔵や中村錦之助などを擁する東映の人気は抜群で、シネ・ニテロイの通りに日本食の店(はじめはうどん屋から)や商店がほかの地区から移転しはじめて、だんだん門前町のように賑やかになり、このあたりが日本人街に発展しました(その後、中国資本が入り、現在は東洋街と呼ばれます)。
私がブラジルにきて数年後、サンパウロに「コロニア文学」という同人誌が発行され、たまたまそれを読んだ私も、異文化との出会いの日常の中で表現したいものが体の中にたまっていることに気づきました。・・そこまではいいのですが、音楽ばかりやっていて、文学とはほぼ無縁に生きていたので、小説は川端康成のように伊豆の旅館など、静かなところで書くものだと思っていたので、サンパウロの仕事を辞めて、海辺の村の日語教師になったりしました。ところが、その村に電気は来ているけど、夜など電圧が低くて九時過ぎまでラジオもならない。もちろん字を書いたり本を読んだりできない。それで、近くの川や池に夜釣りに行くようになった。それ以来、釣りやアウトドアライフが趣味になりました。
まあ、そんな寄り道をしましたが、その後「オール読物」の新人賞を受賞したり、直木賞候補になったりして、どうやら作家の末尾に加わることができました。

 

「アマゾンに魅せられて」

開高健さんが、アマゾン釣魚紀行の本『オーパ』の取材で、1978年に来泊された折は、アマゾン取材旅行の案内役を務めました。それ以後、何度もアマゾンに行くようになりました。

〜アマゾンの生活・習慣・食文化〜

私が住んでいるサンパウロ、あるいは仕事で滞在している東京からアマゾンに行くと、いつも感じることが幾つかあります。そのことをちょっとお話したい。
アマゾンに行くといっても飛行機なので、最初に着く場所は都会のベレンかマナウスです。私の場合は河口のベレンに行くことが多い。ベレンでは最初の数日はとても暑く感じます。赤道に近い熱帯だから気温も暑いけれど、それより自分自身が暑いのです。つまり自分の体がとても熱く感じる。しかし数日が過ぎると、自分自身が熱いということはなくなって、ベレンの気候もさほど暑いと感じなくなるのが常です。
私は体の専門家ではないので、あまり確定的なことは言えませんが、熱帯のほうが温帯よりもカロリーが少なくてよいのかもしれません(逆に寒帯では生存のためにもっとカロリーが必要かもしれません)。かなり前の国連の食料についての報告書を読んだことがあるけど、アマゾンの人の食生活は必要なカロリーを満たしていない貧困クラスだと書いてあった。また19世紀にアマゾンを探検した人の本では、「雇った男たちが驚くほどの粗食にもかかわらず良く働く」と驚いています。なにか、暑さと、それに見合った食事は関係がありそうです。それで日本の夏や冬のカロリーの配分はどうかと思って料理の本を開いても、「冬はなべ物が一番、夏は冷やし中華」という程度のメニューで、私の期待には応えてくれません。栄養士といってもそういう研究はあまりないのでしょうね。
食べ物に関していうと、アマゾンの先住民のインディオは世界で一番、生きるための労働量の少ない種族だったと民族学者は言います。それは主食のマンジョカ芋(mandioca, aipim 英名キャサッバ)が多年生で10株で一人を養える生産力があるだけでなく、植物全体に毒素シアネット( cyanide, シアン化物 )が含まれているので、(生で食べるのは危険)キャッサバ畑は、獣も害虫も荒らすことがないのです。それだから枝の切れ端を畑にさすだけで、あとは働かないで放置しておいてもちゃんと収穫があります。女性たちが収穫した芋の汁を絞ったり加熱したりして、この毒を無毒化して食料にします。
このインディオの知恵を学んで、日本のコメなども、害虫が付かない程度の、しかし、熱を加えると消える程度の弱い毒をもつ品種を作れば、無農薬で手入れ不要のコメができるのではないかなどと夢想するのです。

〜均一な体型のこと〜

第二次大戦後、アマゾン移民の指導者養成の目的で登戸に高等拓殖学校がありました。卒業生のほとんどはアマゾンに入植しましたが、その高拓生たちの入植50年祭に私も招かねてパリンチンスというところの式典に参列したことがあります。50年祭ですから、参加した高拓生たちはほぼ70歳です。ずっとアマゾンにいる人、サンパウロなどの都会に移った人たちと、ほぼ半々の取り合わせでしたが、驚いたことに、都会に住む人たちは太った人、やせた人、体型が様々なのに、アマゾンに住む人たちはほぼ均一の、引き締まった体つきでした。・・海のサバやイワシが同じ体型なのを連想しました・・。さらに、都会の人たちの話題は病気のこともかなりあったのですが、アマゾンの人たちの間では病気が話題にほとんどなりませんでした。(アマゾンの人たちが病気にならないということではないようですが、とにかく話題にならなかった)。
かっては貧困の食事と言われた アマゾン食も、飽食の時代の今では反って健康食など言われるようになりました(人間なんてかなりいい加減のところがあります)。その理由はアマゾンには油の生産がなかったので、調理は焼くか煮るかで、炒めたり揚げたりする料理はなかった。もう一つの理由は牛や豚の肉ではなく、魚が中心の食生活だからです。

〜アマゾンの大魚〜

アマゾン川で取れる魚は、海産魚類に劣らず、美味な魚が多いのです。種類も多く、アマゾンには3000種以上の魚がいると言います(日本の淡水魚は約100種です)。
その中でも、美味しい魚の一つは、同時にアマゾンを代表する魚でもある、ピラルクです。ピラルクは有隣魚では世界最大といわれる魚です。
いまでは鮮魚も売られていますが、モーター船が普及するまでは、塩をして干した干物だけが流通しました。非常にたくさん出荷され、重要な食糧でしたが、各地の漁師たちが自分の家の前で、自分がとったピラルクを処理するけど、高温多湿のアマゾンで3メートルもの巨魚をきれいに干し上げるのは無理で、どうしても茶色がかった(焼けた)という状態になります。それで、ピラルクは「貧乏人の食べ物」などと言われました。
漁師が干物を作っているところを見たことがあります。背中の部分を干物にしますが下腹の部分は脂肪が強くて塩が効かないので、売り物にならず、自家消費していました。そのトロの部分をもらったことがあります。塩を振って炭火で焼いて食べたけれど、これが抜群に旨かった。残りを味噌漬けにして翌日焼いて食べたけれど、やはり旨かった。後日、ソテーやカレーなどいろいろ試す機会があったけれど、焼き魚にまさる食べ方はなかった(ちょうど秋刀魚が塩焼きが最高の食べ方のように)。ピラルクは一億年前から姿を変えていない古代魚です。一億年前というと恐竜が生きていた時代です。「ピラルクがこんなに旨いのなら恐竜の肉も旨かったかもしれない」と思いました。

 

「夫人との出会い」

〜アクシデンがもたらしたご縁〜

ある年、綿の生産会社ブラスコット社がある、サンパウロ州グアイラで開催された入植祭に友人に会いがてら出かけました。グアイラの町の駅から入植祭行きのバスに乗って間もなく、バスはエンジン故障で止まってしまいました。バスには、自分以外に、 純子さん(夫人)と妹の若い二人の女性が乗っていました。三人を道端に置き去りにして、故障したバスはどこかへ消えてしまった。次の路線バスが通るまで2時間あった。そのあいだ3人で自己紹介をしてお喋りをしていて知り合いになったのが始まりです。2時間も待たされて「田舎のバスはボロだ」などと三人で文句を言っていた結末が、めでたく結婚ですから、(人間万事塞翁が馬)のことわざのとおり悪いこともあれば良いこともあるのですね。

 

「最近の趣味」

〜クスクスに興味を持つ〜

私の趣味はハードな山歩きや釣りでした。ブラジルに戻ってから小さな会社をやっていましたが、コロナのせいで、最近、会社から引退したばかりなので、まだ新しい趣味といえるものを見つけていません。
趣味とまで言えませんが、インターネットで知らない食べ物を見つけて作るのを面白がっています。最近ではクスクスで、これは日本生まれの人はあまり知らなくて、ブラジル生まれの日系人はたいてい知っている、という点に興味をひかれた食べ物です。北アフリカの食べ物ですが、世界中に広まって、最近は日本でもサラダというかたちで入っているようですね。これを、世界中のレシピで、暇な折に、一つずつ作っています。「この国のレシピはなぜこんな風に変化したのだろう」と推測しながら作るのが面白いのです。

 

「茶道について」

〜カペーラと茶の湯〜

茶道の経験はないですが、とあるファゼンダ(農場)のカペーラ(礼拝堂)を訪ねた時に、10人くらい入る、こじんまりした大きさでしたが、外も中も石灰で白く塗ってあって、簡素で清潔で、不要な装飾もなく、しかし礼拝堂ですからある引き締まった感じがあり、こういう場所でお茶を点てるのも良いのではないかと、カペーラから、茶室を連想したことがあります。


編集部より **貴重なお話し長時間にわたり、有難うございました。
* インタビュー記事 原文のまま

インタビュー:2021年8月17日

 

Outubro de 2021

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